素朴な疑問
「僕は無信仰者だから、、」あんしんサポートを利用した家族、入会相談で僕と逢った家族は恐らく全員が耳にした言葉ですが『なぜ俺は無信仰なのだろう?』と考えてみた。
人生の中で信仰との出逢いが無かった?「NO」2番目に行った保育園がカトリック、祖父は曹洞宗の檀家、商人だから毎年商売繁盛の「えびす講」は、アコーディオンの人も来て社員全員で派手に祝ってましたから神道? 祖母は高齢になってから従妹の影響で創価学会員でした。
稼業倒産後は一緒に住んでましたから毎朝唱える方便品第二は正に「門前の小僧習わぬ経を読む」状態、両親と姉妹に宗教のイメージはありませんけど、保育園を考えると父親はクリスチャン?いずれにしても宗教と無縁とは思えない人生です。
自分が無信仰者であるとハッキリ自覚したのは52才の時だから、それまでの人生で宗教を否定するような事があったのか考えてみた。
信頼に足らない人達
52才までの人生で僧侶との関りは一切ないにも関わらず、姉の葬式で「今までのお付き合い」のような言葉を聞き、付き合いなんてねぇだろ?と思い、法話で自分でなく立派な人の話しを偉そうに語る姿を見て「虎の威を借りる猫」と思った記憶があるから、その辺りから仏教心は消えたのだろう。
公営住宅に住む祖母の所に来る人達の話は薄い壁で筒抜け、聞きたくないけど聞こえるわけで「〇〇さんは一生懸命勤行したから病気が治ったけど、△△さんは勤行と財務が足らなかったから亡くなったんだね」
この手の話しを何度も聞いてるうちに、悩みの大きさで財務(献金)が異なる的な言葉に信用できないと思ったのが学生時代、その後は様々な宗教があると知ったけど、その大半は最後に「金」が着いてくる事も知った。
嫁さんの父親は裕福でなく自分で稼ぎながら大学を出たらしく、その時に世話になったのが天理教だったそうです。
義父に認知が発生してからも、我々がいない時間帯に訪れては父親の金を持って行ってたようで義父の通帳残高は殆ど無かったと嫁さんが言ってました。
どんな宗教も建前は無理の無い範囲の寄付と言うが、多額の寄付者=信仰心の強さと思い込ませられる実態、「布施はお気持ちで」と言ってる僧侶が少額の布施を見て「供養の心が足らない」の発言は霊感商法そのものです。
宗教と偉人の関係
宗教については20代で知った松下幸助氏からで初めは創価学会員?と思いましたが良く調べると浄土真宗らしく、かつて日本一になったダイエーの創始者だった中内功氏の著書に出てくる法華経の言葉は日蓮系か天台宗でしょうか。
世界を見ればアメリカで一番有名な大統領リンカーンは「プロテスタント」現在のトランプ大統領も確かプロテスタント、宗教は違えど偉人の多くは何故信仰心が強いのだろうか?と真剣に考えた時期があります。
その時の答えは『最終判断は経営者である自分でするしかなく、結果がどうであれ迷わず、後悔しない為の判断基準を常に明確にしておく為の手段ではないだろうか!?』が結論でした。
納得できる宗教はあるのか? 仏教・神道・カトリック・プロテスタントを広く浅く確認、全ての信仰で納得する教えがある反面、疑問が残る史実もあり心酔するに至りませんでした。その最大理由は宗教戦争に辿り着く現実です。
経営者の道を歩き始めた35才から最後の判断は自分の現実を知り「九星」を学び、今年は停止して吉なら新規事業に手を出さず、動いて「吉」の年は動いてましたが疑問点が増え続けた事から止めました。
迷わない生き方を見つけた
信仰とは生きる為の指針であり、その教えが最終的に喜びを伴わなければ意味はありません。
疑問を持ちながら厚い信仰心には成り得ませんから、純粋な素直さが欠落した人間かもしれませんけど、それが素の自分なら無理して合せる必要はありません。
20代の時、考え方に大きな影響を与えたのがディール・カーネギーの『人を動かす』そして偶然から湧き出た『我が店はお客様の為にあり』の考え方は商売に限らず人生に大きな影響を与えたと思う。
宗教には信仰対象となる人物や聖書が存在しますが、その対象が利用者だったり、嫁さんだったり、千明だったり、子供達だったりで特定の人物や書物でないのが僕のような気がします。
2008年の時点では気付いてませんから、せいぜい10年程度の不確かなものだけど、この発想で続ける葬儀支援は儲からずとも食えてきたし、会員募集しなくても紹介で来るし、家族関係は若い時より良好だし、千明との関係も互いに信頼に足る人物だし、あんしんサポートの信用も上がり続けてます。
だからと言って会員さん達の我が侭を聞いてる訳ではありません。全会員が受けられる恩恵なら検討しますけど、個人的な我が侭だと思えば「ピシャリ」と否定します。
信仰と同様の価値はあるだろう
この18年間は進む道で迷った事は無く、後悔もなく、人生の中で最も充実した時間と思うから、きっと厚い信仰のある方と変わらない日々だろう。
我が人生に於いて頼って来られた人達が人生の幕を引く時、死後費用等の心配や不安を抱える事なく心穏やかに過ごせたと家族や、周囲から聞かせられる事が何よりの喜びであり自分達が存在する使命。
その結果として得られるのが「生き甲斐のある日々」「堂々と胸を張れる毎日」「元気な笑顔で生きる日々」なのだから、他人の為に生きているように見えるかもしれないが全ては自分の為なんです。
若い世代には理解し難いだろうが「死」を現実として受け止められる人達にしてみれば、少なくとも死後に必要な費用への不安や心配をせず生きられる時間の提供は「信仰」と呼べるかもしれません。
多くの信仰は「成仏」「復活」など死後の安心を謳って不安を取り除こうとするが、宗教者自身が体験した訳でなく、それを証明する事はできません。
でも終幕を迎えるまでの余生は「死後費用の不安や心配をする事なく過ごせたか否かは確認できます」それを家族から聞かされる事も多々ありますから、その意味では世界の各信仰より長けている部分かもしれません。
火葬・散骨など実際に掛かる最低限の対価費用は必要だけど準備できれば、死後費用について一切考える必要がない安心感は大きいはずです。
当支援センターの利用には葬儀社以上に面倒な手続きがあって、事前予約、予約日時に来館、本音相談、菩提寺の葬式は駄目、余裕のある人は対象外、非会員は受けないなど、葬儀社ではあり得ない条件ばかりです。
面倒な手続きと条件を全て受け入れた上で入会された人は無信仰者とは限らず、信仰心のある会員さんも大勢いらっしゃいます。
葬式は宗教儀式でなく「親交の深かった人達が別れを受け入れる場」であると考えており、信仰心の有無は関係ありませんので、信仰心のある方、無信仰の方、いずれも同様に受け入れられるのは無信仰者だけですから18年間の支援活動がより無信仰者としての自覚を強くしているのかもしれません。

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